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zoom RSS 茶色の服の男 (アガサ・クリスティー)

<<   作成日時 : 2012/05/13 13:20   >>

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満足度4 ★★★★

ハヤカワ・クリスティー文庫
原題 The Man In The Brown Suit
翻訳 中村能三(新訳版 深町眞理子)
初出版 1924年
読んだ回数 3回







ハヤカワ・クリスティー文庫−裏表紙の紹介文

考古学者の父を亡くして間もないアンは、ロンドンの地下鉄で奇怪な事件に遭遇する。外国人の男が何かに驚いて転落死し、現場に居合わせた怪しげな医者が暗号めいたメモを残して行方をくらましたのだ。好奇心に駆られたアンは、謎を追って単身、南アフリカ行きの客船に飛び乗った……ミステリの女王による胸躍る冒険ミステリー。


感想、みたいなもの

クリスティーの作品の中では、何と言ってもポアロとミス・マープルが有名ですが、シリーズものではない主人公による作品も数多くあります。

それら、「ノン・シリーズ」の中では「そして誰もいなくなった」が最も有名ですが、他にも面白い作品がたくさんあり、この「茶色の服の男」も、その一つだと思います。

「茶色の服の男」は、クリスティーの四作目の著作にして、「ノン・シリーズ」最初の作品ですが、ポアロやマープルのような「推理系」ではなく、トミーとタペンスの「秘密機関」と似た感じの「冒険系」の物語です。

主人公の「アン・ベディングフェルド」は考古学者の父を亡くし、天涯孤独の身になりながらも、好奇心旺盛で前向きな明るさを失わず、ある事件を目撃したことをきっかけに、南アフリカ行きの船で冒険の旅に出ます。



南アフリカでは、アン自身、危険な目に遭いながらも、事件の謎に迫っていくという、スリルと、そしてロマンスに満ちた、アンの大冒険が繰り広げられます。

初めて読んだのはもう30年以上前だと思いますが、二転三転の内容に、夢中になって読み進んだ記憶があります。

その後再読したと思うので、今回が三回目だと思いますが、手の込んだ現代の作品に比べると、さすがに古さと時代を感じてしまいますが、それでもそこは、さすがにクリスティー、安心して読め、逆に、くどさのない爽やかな読後感が味わえると思います。

−−−−−−−−−−−−−−−

さて、「茶色の服の男」は、2003年にクリスティー文庫が創刊された際には、新訳とはならずに移植されましたが、2010年の「クリスティー生誕120年」を記念した新訳版追加刊行のひとつとして、新訳版となりました。

私はハヤカワ・ミステリ文庫でクリスティーを読んでいましたが、やはり文字が大きい方が読みやすいので、トール版の「クリスティー文庫」も購入しています。

「スタイルズ荘の怪事件」「秘密機関」は新訳で読んでも特に変化は感じませんでしたが、「牧師館の殺人」では、新訳の日本語が読みにくく、新旧の訳文を比較してみたのですが、今回も新旧どちらで読むか決めるため、まず少し、訳文を比較してみました。

例えば冒頭の部分。

(旧訳)パリじゅうを沸かせていたロシアの踊り子ナディナは、観客の拍手にこたえて何度も何度も頭を下げた。細く黒い眼がいちだんと細くなり、真っ赤な唇の長い線にはかすかな笑みが浮かんでいた。

(新訳)近ごろパリじゅうを沸かせているロシアの舞踊家のナーディナは、拍手に答えてしなをつくりながら、何度もお辞儀をくりかえした。黒く細い目がいっそう細められ、真っ赤にいろどられた大きめのくちびるの両端が、わずかに上へつりあがった。

旧訳でも、特に分かりにくい部分はないと思いますが、それでも、かなり表現が変えられているのが分かります。

私がまず、真っ先に違和感を覚えたのが、旧訳の「ナディナ」が「ナーディナ」になっていることでした。

巻頭の登場人物一覧をみると、全部で四人の表記が変えられていました。

Nadina (旧:ナディナ → 新:ナーディナ)
Lord Nasby (旧:ナスビー卿 → 新:ネズビー卿)
Colonel Race (旧:レイス大佐 → 新:レース大佐)
Mrs Suzanne Blair (旧:スーザン・ブレア → 新:シューザン・ブレア)


もちろん、本来の発音が「ナーディナ」なのかもしれませんが、もしそうなら「レース」は逆におかしいと思いますし、「シューザン」というのも、日本語として耳慣れない、見慣れないもので、軽い不快感を与えてしまう、意味のない変更だと思います。

このような変更は、昔からの読者に違和感を与えるだけですが、初めての人が読むにしても、特に理由がない限り、一般的な表記を選ぶべきだと思います。

こういう変なところで自己主張する人は、経験上、ロクでもないことが多いのを知っているので、今回は旧訳で読むことにして、「牧師館の殺人」と同じように、「旧訳でわからない文章があった時に、補足的に新訳を見る」というスタイルにしました。

とは言うものの、全体を通して、新訳にあたらないと意味が通じない所はほとんどなかったので、読了後に、ストーリーのおさらいを兼ねて、新訳をナナメ読みしてみたところ、いくつか気がついた点がありました。

まず気がついたのが、長さ・重さ・距離の単位についてです。

(旧訳)「背の高さはどうでした? 百八十三センチくらい?」
(新訳)「身長はどれぐらいだったとお思いになります? 六フィートぐらい?」

(旧訳)正面の八百メートルほど先に
(新訳)まっすぐ正面、半マイルと離れていないところに、


どちらが理解しやすいかは言うまでもないと思いますが、新訳では、わざわざフィートやマイルという、日本人が通常使わない単位に戻すという愚行がなされていました。

まあ、「くらい」とぼかしているのに「百八十三センチ」と細かく刻んでいる旧訳も変な日本語で、正しくは「百八十センチくらい?」とするべきなのですが、ここで、ふとした疑問が…。

村上春樹が訳した「さよなら、愛しい人」で、村上春樹が日本の単位を採用していたことに対し、「誰もしてくれなかったことをやってくれた村上春樹に拍手です。」と書いたのですが、私の少ない読書量ではありますが、それまで、そういう配慮にはお目にかかった記憶がありませんでした。

それなのに、30年前に読んだ「茶色の服の男」がそうなっていたのはおかしいと思い、トール版になる前のハヤカワ・ミステリ文庫の訳を見返してみたところ、

「背の高さはどうでした? 六フィートくらい?」
正面の半マイルほど先に


やはり思ったとおりでした。

ハヤカワは、トール版にする時に、このような表記の変更を行っていたのでした。

しかし、このような嬉しい配慮を施したにもかかわらず、新訳版でチェックしないというのはどういうことなのでしょうか?

古典に属するといっても良いクリスティーの作品を新訳にする目的は、当然、今までの翻訳を見直し、明らかな誤訳や分かりにくい表現を手直しする「新訳」が望まれていると思うのですが、どうも、ハヤカワの意図は、そうではないようです。

今回のハヤカワ新訳を何作か読んでみて、特徴的に思えるのは、「抄訳」あるいは「意訳」ではなく、原文のままの「直訳」が望まれているらしいことです。

そもそも、英語と日本語は異なる言語なので、あるひとつの意味を表すにも、構造上の違いなどがあるのは当然で、直訳で言っていることを自然な日本語に置き換えることこそ、翻訳家の腕の見せ所だと思うのですが、どうも、ハヤカワはそれを望んでいないような気がします。

先にあげた、

くちびるの両端が、わずかに上へつりあがった。

という直訳は、すなわち

かすかな笑みが浮かんでいた。

ということに他ならないのですから…。

また、今回の一連の新訳には「田村隆一狩り」の側面があることを、「牧師館の殺人」の感想にも書きましたが、今回の中村能三(よしみ)氏も、どうやら「狩られる」側に入っているようです。

中村能三氏は、ハヤカワで、ポアロものを中心に7作品の翻訳を手掛けていますが、2010年の新訳版追加刊行10作中、3作品で対象となっています。

深町眞理子氏は、旧版では、あまり有名作品ではない5作品の翻訳をしており、さらに2作品の新訳を依頼されています。

3氏の生まれた年を調べたところ、

中村能三  1903年(明治36年)
田村隆一  1923年(大正12年)
深町眞理子 1931年(昭和6年)

となっていました。

新訳の目的のひとつに、「現代の人にもわかりやすくする」ことがあると思うのですが、深町さんは、そういう目的にかなった年齢の方とは思えません。

例えば、こんな訳がありました。

(旧訳)「やれやれ! 君はレイバーンと話をしたな。」
(新訳)「たはっ! さては君、レイバーンのやつに何か吹き込まれたな?」

(旧訳)「よく来てくれた。まあ、かけなさい。旅の疲れは? それは結構。」
(新訳)「さあ、こっちにきて、かけなさい。旅の疲れは出なかったかね? そうか、それは重畳。」


「たはっ!」は、まだ許せるかもしれませんが、「重畳(ちょうじょう)」って何ですか?

意味を調べてみると、

1.幾重にも重なること。
2.この上もなく満足なこと。大変喜ばしいこと。感動詞的にも用いる。


とのことですが、普通、こんな訳語の選択はあり得ないと思いますが、ハヤカワはチェックしなかったのでしょうか? それとも、原文が、それに近い、古典的な言い回しで、「直訳」主義ということなのでしょうか?

−−−

こうしてみると、一連のハヤカワの「新訳」は、本来の目的を放棄し、ただ「新訳」として読者の目を引き付け、売り上げを伸ばそうとする手段としか思えないのですが、それにしてはチェックも適当で、読者を馬鹿にしている感じすらします。

とにかく、ハヤカワの「新訳」の意図が、(田村隆一狩り以外)私にはサッパリわからないので、今後は、基本的に「旧訳」で読むことにします。

ハヤカワに限らず、編集者の質も低下しているのでしょうけれど、それにしても、今後、「新訳」を読まされる新しい読者の方が気の毒で仕方がありません。

少なくとも、「茶色の服の男」に関しては、旧訳の方が読みやすいまともな日本語であると断言し、これから読む方で「旧訳」が手に入るのであれば、「旧訳」を読むことをオススメします。

−−−−−−−−−−−−−−−



「茶色の服の男」は、1987年に「殺しのブラウン・スーツ / 茶色の服の男」として映像化されていました。



ネットで探してみたところ、全編、字幕付きで観られるYouTubeがありました。少し観たところ、設定自体、かなり原作とは違うようですが、まあタダで観られるので、全部観てみようと思います。

−−−−−−−−−−−−−−−



ハヤカワ・トール版の表紙(左)は、南アフリカ行きの船をイメージしたものですが、2011年の5月に新訳となった時に、期間限定の表紙(右)となりました。

この表紙を描いているのは、谷口ジロー氏ですが、知る人ぞ知る人気マンガ「孤独のグルメ」の作画と言えば、わかる方も多いのではないかと思います。



私も「孤独のグルメ」はわりと好きなのですが、このハヤカワの表紙には首をひねらざるを得ません。同時刊行の「オリエント急行の殺人」の表紙も含め、これは、ちょっとどうかと思います。

同じハヤカワの、「クリスティー・ジュニア・ミステリ」に採用した方が良いのではと思わせるような「子供っぽい表紙」ですが、本当に、ハヤカワのトール版の表紙はロクでもない表紙ばかりでイヤになります。

と、何度も同じことを書いていますが、感想がいつも同じになるので仕方がありません。もうこうなれば、意地でも書き続けようと思いますが、



やっぱりクリスティーの表紙は、ハヤカワ・ミステり文庫(旧版)の真鍋博氏のものが一番です。


印象に残った言葉



はじめてテーブルマウンテンを見た時のことを私は一生忘れないと思う。
その光景に私は思わず息をのんだ。そして、この上なく美しいものに出会った時に感じる、奇妙な胸の痛みを覚えた。それは何か新しいもの、これまで思いもかけなかったもの、ロマンスに対するうずくような渇望を満たしてくれるものだった。



正面の八百メートルほど先に滝があった。これほど雄大で美しい眺めは見たことがなかった。確かに私は幸せだったが、それとは別に、何かを待ち望んでいる――すぐにも起こるがずの何かを――という奇妙な感情にとらわれていた。


−−−−−

南アフリカで、「テーブルマウンテン」、「ビクトリア滝」を見た時のアンです。

「新しいものに出会いたい!」という欲求こそが冒険心なのだと思いますが、未知なる冒険にひかれるアンの性格が良くわかる文章です。

解説によれば、作者のクリスティー自身、実際に南アフリカを旅したことがあるとのことで、アンの冒険心、好奇心が、リアルに描かれているのも、クリスティーの思いがそのまま表現されているからなのでしょう。

アン=クリスティーと思って読むと、本作品をさらに楽しめるのではないかと思います。



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アガサ・クリスティー / 著作リスト

(ブックレビュー / ノン・シリーズ)
茶色の服の男


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